最近「バーチャルネット図書委員のどか15歳」というサイトで「平成17年5月4日 幽霊に足がない理由 」という記事を見かけました。そのほかにも雑学サイトにそのような内容がたまに載っています。
今でも応挙説が根強いようなので以前「怪」掲示板に投稿した内容に加筆したものをここに載せます。
応挙が最古と言われ出したのは文政12年の随筆「松の落葉」などの記述に見られます。
しかし、1673年には浄瑠璃本「花山院きさきあらそひ」の挿絵に脚のない幽霊(藤壺の怨霊)が描かれています。それ以降の元禄から正徳にかけての実録本や浄瑠璃本の挿絵にも足のない幽霊が描かれています。
そのかわり肉筆画で応挙より古い足なし幽霊は知られていないそうです。 これが応挙創始の理由ではないかといわれています。
後、応挙真筆の幽霊画は、まだ確認されていません。 ここで上記のサイトなどでリンクを張っている「ほぼ日刊イトイ新聞」などを見ると一作品しか出していませんが、応挙が描いたといわれる幽霊画はたくさんあります。(このサイトのDBをお使いください。弟子のも出ますが)落款が入っていなかったり、弟子による模写が多いのが原因のようです。
その他にも、写生派の応挙が幽霊のような写実的でないものなど描くか?という偏見などがあいまって、真筆にはされていないようです。 最有力候補は「久渡寺」や「カリフォルニア大学(上記のサイトで画像が見られます)」のものだそうです。
応挙が幽霊画を描いた理由はこれとは別の話なのであまりしませんが、脚のない理由が、応挙真筆最有力候補(久渡寺)が「反魂香之図」というタイトルであることなどから下半身が煙で覆われているから見えないのではないかという考え方もあります。
このことに関しては幽霊画集などを見ていれば分かるのですが、反魂香をテーマにした幽霊画はたまにあります。題名にはっきりと「反魂香」と描いていなくても、幽霊の隣にお香が置かれていれば「反魂香」をモチーフにしていると考えてもいいでしょう。
この「反魂香」というものは、「女神転生シリーズ」というゲームでもおなじみのものなので知っている人もいるかもしれませんが、漢の武帝にまつわる故事に出てくる死者の魂を呼び寄せることのできるお香です。さまざまな物語の題材になっていますし、「帝都物語」でも使われていました。江戸時代には浄瑠璃や落語の題材に使われています。
お香だけあって、「反魂香」をモチーフにかかれた絵の特徴は下半身が煙で見えなくなっているものが多いです。参考に全生庵の『還魂香』にリンクをしておきます。
私自身もDBを作る際に幽霊画の画集を眺めながら幽霊に足がなくなった理由は「反魂香」がきっかけではないかと思いましたが、そのためには浄瑠璃本を調べなければならないと思います。
「足のない幽霊」が誕生した理由は結局のところ「〜という説がある」どまりで確実なところはまだ分かっていないようです。
「初めて描いたのは応挙」は違う気がするのですが「広めたのは応挙」という説ならいいと思います。でも広がりのきっかけ自体は大衆芸能のほうが強い気がします。狩野派絵師の絵に庶民が触れる機会がどれだけあるのかが分かりませんが。
応挙が偶然下半身を薄く描いただけか、浄瑠璃本の技法を見てまねしたのか分かりませんが、もし後者なら、漫画の技法を画家が真似をすると、その技法がその画家が初めて描いたことになってしまうのと同じような気がします。
おまけですが吉川観方氏の『絵画に見えたる妖怪』では
七、 女房と幽霊 土佐光起筆 森徹山摸
幽霊には足が有るのが本儀であるが、現在方々で見受ける幽霊は殆ど皆足が無い。
それでは何時ごろから無くなったのであらうか。
一般には、かの写生派の祖円山応挙の創始工夫によるものと云はれているが、
ここに載せた光起筆の図が、その模写した森徹山の署名の添記を真とすれば、
少くとも元禄には既に足の無い幽霊が有ったことが証明せられることとなる。
更に又、前頁に載せた佐脇嵩之が
元文一年に写した「妖怪図巻」を、その署名の添記即ち、
本書古法眼元信筆云々を真とすれば、元禄よりは遙に古く、
江戸時代を超えて室町時代に溯る訳になるが、
これは其の儘直ぐにには信じられないと思ふ。
吉川観方が「応挙無脚幽霊創始説」が疑問視されていたという参考です。
ついでに「2004妖怪旅行 熊本編」にも書きましたが、幽霊画というものは本物と写真ではまったく迫力が違います。きっと今年の夏休みもどこかで幽霊画展が行われると思うのでぜひ見てみてください。
参考図書
・『怪異の民俗学6 幽霊』
・『別冊太陽 幽霊の正体』
・『異界万華鏡』