第一節 鎌倉時代から南北朝のつくも神たち
第二節 室町時代のつくも神たち
1.『付喪神絵巻』のつくも神
2.『百鬼夜行絵巻』から見るつくも神
第三節 安土桃山時代
第三章 江戸時代のつくも神
第四章 つくも神の形
第五章 怪談とつくも神
第六章 近代から現代へ
第七章 まとめ
参考資料
物を粗末にすると罰が当たる、と言われたことはないだろうか。
古来より日本人は、万物に霊は宿ると考えてきた。それは器物にいたっても例外ではない。使い古された器物に霊が宿ったものを「つくも神」という。現代でも神社などで、使い古した道具をそのまま捨てずに供養する習慣、人形供養や、筆供養、針供養(*1)などが行われておりよく例としてあげられている。
このつくも神は一般的には「付喪神」とかく。正しくは「九十九髪」と書くのだが、(*2)当て字として「付喪神」が使われだしたそうだ。この二種類の字は「付喪神」のほうがよく使われているが、九十九神も使われていないわけではない。このような理由から、間を取り小松和彦(*3)の例に習い「つくも神」と表記する。
そもそもつくも神とは何か、おそらく年を経るごとに霊力が増すという中国から伝わった考え方と、日本に古来よりあった、すべてのものには霊が宿るという、アニミズム的な考え方の融合により誕生した妖怪である。ここで注意しなければならないのは、器物に外から霊がつくわけではなく、器物自体から生じるのだ。
古代から中世までの妖怪の主流は自然の化身、蛇や、龍、狐などがあげられる。これらの妖怪は自然を象徴するだけあって、話のスケールや、描写の迫力も恐ろしさを感じさせるものであった。
しかし、室町時代ごろになると、それが衰退し、そのかわりにつくも神が登場しだした。室町時代の工業生産能力が飛躍的に発展したことの現れである。花田清輝(*3)は「煤払いのさい、古道具たちが、無造作に路傍に放り出されるということは、彼らにとって代る新しい道具類のどんどん生産されていたことのあらわれであって、室町時代における生産力の画期的な発展を物語っている」と述べている。(花田清輝[1999:46]) つまり現代ほどではなくとも消費社会になっていったのである。
付喪神絵巻(崇福本)の冒頭で『陰陽雑記』という書物に「器物百年を経て、化して精霊を得てより、人の心を誑す、これを付喪神と号すと云へり。」と記されているとある。
一般的に百年たった道具は鬼になるといわれ、その一つ手前、九十九年の時点で捨てられるとつくも神になるようだ。九十九という言葉はそのまま九十九と考えるよりも、たくさんという意味で、正しくは「九十九神」と書くようだ。これは器物だけでなく、動物や、植物はては、人間にまで当てはまるのだ。
このつくも神が出てくるのは室町時代以降が中心であり、土佐光信伝の『百鬼夜行絵巻』にもその姿が見られる。
大体つくも神というものは、捨てられた恨みによって、人に怪をなしたり、祟ったりすることが多い。しかし、彼らは絵に表示されるとき、どこか憎めない、ユーモラスな感じに表現されていることが多く感じる。怪異をなすだけでなく『不動利益縁起絵巻』では、安部清明が厄病神を祀ることにより、師匠の病を弟子に移そうとする。少なくともこの内二人はつくも神である。
ただ、つくも神は、他に見られる絵巻、『土蜘蛛草紙』、『玉藻前絵巻』に出てくるほかの妖怪と比べて小物じみている気もするが、それは、もともと彼らは人が生活するうえで使ってきたものであり、人と非常に近く接してきたものだからではないだろうか。人は物を粗末にするだけでなく、大切にしたりもする。
たとえば笠地蔵などもそうではなかろうか。木像、罹漢仁王、面地蔵などの人型のものは最も化け易く、人形芝居の人形は、夜必ず動いていたそうだ。摂津花隅の城主荒木氏の臣鹽田平九郎は三人の武士のひそひそ話を聞いたが、正体は箒、団扇、笛などが化けたものであったという話もある。石の地蔵がお礼にやってきたのは、仏教的な側面よりも、人型の石像のつくも神と考えるほうがふさわしいように感じる。
彼らは祟るだけでなく人間を愛し愛される側面もあるだろう。
ただ、江戸時代以降、器物の怪はつくも神と呼ぶべきか曖昧なものもある、百年も経っていないものや、ただ擬人化されたようなものだ。だが、この文中では器物の怪を一貫してつくも神と呼ぶことにした。
*1 つくも神のことを説明するときによく持ち出される例。針供養などの伝統行事が行われるのは江戸時代からである。起源は淡島神社であるといわれている。祭神は少彦名命もしくは婆利塞女とされており、どちらにしても女性との結びつきが強い。針は女性にとって労働として大切なものであり、また、この神社が流し雛からはじまったとされる人形供養も行なっている。女性の守り神という点が強い。確かに原因の一つとしてあるかもしれないが、つくも神の思想は後づけされたものではなかろうか。その後転じて仏教の虚空蔵菩薩に広まっていったようだ。
*2 老婆の白髪がもとであるといわれている。九十九は「百」の字に一画足りない「白」とみて、九十白髪の意。「長い年を経た」ことを表す言葉であるという説がある。また、年を経た老婆が子供の腕を食べてしまう話があり、モノや動物にかかわらず妖怪になることを表している。
*3 (1947−)年生まれ。現在国際日本文化研究センタ−教授 をしている。文化人類学、民俗学、口承文芸論を専門とし、民俗宗教、シャーマニズム、妖怪 などをテーマに研究する。
*4 (1909−1974) 評論家・小説家。福岡県生まれ。京大卒。創造的な思考とレトリカルな文体で、転換期の人間的本質を追求。戦後のアバンギャルド芸術運動に指導的役割をはたす。著「復興期の精神」「近代の超克」、小説「鳥獣戯話」
まず、つくも神はどの時代から出てきたのだろうか。彼らは主役にこそならないが、脇役としてはさりげなく登場していた。例えば、『土蜘蛛草子』(東京国立博物館蔵)(図@) という十四世紀前半ごろの絵巻には、源頼光があばら家でつくも神にあう場面がある。
「頼光は心を静めて聞くに、鼓を打つが如く足音して、言ひ知らぬ異類・異形の者共幾らといふ数知らず、歩み来れり。はしらを中に隔てて、各々居ぬ。姿区々なり。頼光、灯火の方を見遣るに、その眼百毫の如し。皆一度にどうと笑ひて、障子を引き立てて去り行きぬ。」
現われた異類・異形たちの種類は、鶏女、狐女、獏などの動物系の妖怪に混じり、器物の怪であると思われる、五徳(*1)をかぶった牛、角盥(*2)、葛箱、杵などが見られる。
五徳は牛のような顔面をしている。人間のような胴体には両手がなくふんどしを巻いているので男であろう。緑色の肌をしている。角盥は盥の口がそのまま口として歯や舌が生えている。大きさが小さく、宙にういているようだ。葛箱は箱に顔が描かれ、その下に人間のような胴がついている。やはりふんどしを巻いている。杵は蛇のような体つきで、しかも二本の手が生えている。
確かに、妖怪屋敷で突然このような者たちが現われたら恐ろしいが、彼らは妙に楽しそうであり、何故かユーモラスな感じすらする。彼らのしたことといえば、一斉に笑った後障子を閉めて去ったぐらいだ。意外と礼儀正しい。
他にも、鎌倉時代の作品『不動利益縁起絵巻』(東京国立博物館)(図A)で、安部清明が式神を呼び出す場面がある。そこで五人の妖怪が出てくるが、その内の上二人は器物の怪であるようだ。残り三人はくちばしや、尻尾があるので動物由来のものであろう。おそらく、上の頭から三本の線が生えているものは五徳だろうし、その隣の赤い顔をしたものは、角盥辺りではないかと思われる。
この二つに共通して言えるのは、どちらもつくも神を描くためのものではないし、出てくるときは、他の種類のものと共に出てくることがほとんどのようである。つまり雑多に妖怪を出すとき、使われているようだ。
室町時代はもっともつくも神が栄えた時代であろう。この頃仏教も大変栄えた。もともと小乗仏教にはすべてのものに魂があるという考え方があったわけではない。日本でさらに日本人のアニミズム観にそって広がっていったのだ。だが、以前は祟るものを祀っていた時代から、僧侶の力が強くなり、調服したものをさらに仏教の力にしていくようになった。前の時代の妖怪たちと比べてつくも神が弱々しいのはそのせいかもしれない。
つくも神が台等した原因として中世の工業の発達は目覚しく、第二の自然として道具の怪が本格的に現れたことがあげられる。民衆が持っていた道具というと、大部分が、釜、鍋、金輪、臼、桶、壷などが多く見られる。農村では上流、もしくは中流の家庭に道具が多いが、都市部なら、下層の上にあたるものでもわりと道具を持っていたと思われる。さらにこの時期は工業の発達により、鉄製品が一般にも出回っていたようだ。これらの道具はつくも神によく見られる。
この頃の主な妖怪絵巻は、小絵が中心である。美術作品としては前の時代よりも劣るといわれるが、これはこれで素朴な味があるってよいのではなかろうか。
そのなかでも異類物と呼ばれるタイプの絵画がある。『十二類合戦』『鼠草紙』なども幻想的なものである。つくも神の出てくるものも、この影響ではなかろうか。
つくも神が出てくる幻想的な絵巻に化物草子(ボストン美術館所蔵)と呼ばれるものがある。土佐派の絵師によるものだと言われているこの絵巻は、五つの短編からできている。その中では柄杓、柄の折れた銚子、案山子などが化ける。とはいっても柄杓は栗を取るだけだし、銚子も姿を見せるだけ。案山子は女のもとに通っていたくらいだ。
どうも、つくも神は全体的に凶悪な感じはしない。
つくも神が大々的に主人公になっているものといえばこの『付喪神絵巻』以外あるまい。その中でも崇福本は室町時代後期に作られた小絵であり、非常に素朴な愛すべき庶民の絵巻である。この絵巻は真言宗の宣伝的な色合いが強いが、このような絵巻が描かれたというだけでも、当時つくも神がメジャーであったことがしのばれるであろう。
この絵巻は 煤払い(*3)のさいに捨てられた器物たちが、人間に捨てられた恨みにより鬼になってやがて、仏教の力により懲服されやがて仏門に帰依し、成仏するという物語だ。話の結びに真言宗では『阿字(諸物の根源)』は命あるものもないものも等しく持っており、なくなるものではない、としている。絵は非常に素朴だが、つくも神たちが、大変ユーモラスに感じる。器物に変じた彼らは鬼のような、少し動物的な姿に変わる。きちんと服まで来ている。『土蜘蛛草子』などに出てくるつくも神たちがふんどし一つだったのに比べ、随分と文明的だ。登場するつくも神は、文中に名前が出てきているだけで、「手棒の荒太郎」「数珠の一連入道」「古文書の古文先生」「立鳥帽子の祭文の督」「小鈴の八乙女」「手拍子の神楽男」がいる。
このつくも神たちは、煤払いのさいに捨てられた器物たちである。最初の登場場面では、単に器物の姿をしていたのだが、(図B)節分の夜に化物となる。(図C)
その際の姿は器物の怪というよりも、鬼に近いものがある。ものによって、人間の男女に近い姿をとったり、鬼のような姿になるもの、獣のような姿になるもの様々である。壷の妖怪などは比較的原形をとどめているが、全体的にもとが分からないのが多い。ただ、時代が下った絵巻では、最初から器物に顔が付いたり、化物になった後も、属性が分かるものが多い。崇福本の一連上人は人間にしか見えないだが、後の時代に作られた京都大学図書館所蔵の絵巻は明らかに数珠で顔が構成されている。
これは、初期のつくも神というものは、鬼の一種であり、恐怖の対象であったものが、時代が下がるにつれ、あくまでも器物が変じたものというキャラクター性のほうが買われていった結果ではなかろうか。
室町時代に登場したこのつくも神。もっとも有名な図画はやはり、『百鬼夜行図』(土佐光信伝)(図D)だろう。百鬼夜行の話が出始めたのは平安時代末期だ。大鏡などに、百鬼夜行に遭遇した話が出てくる。ただ、その時列を成しているのは鬼である。
しかし、この絵巻で列を成しているのはつくも神を中心とした物の怪たちである。このことには様々な説があるが、田中貴子(*4)の説に賛同する。それは、百鬼夜行絵巻は、この真珠庵本とは別に原本があると一般的に考えられている。だが、その原本が、『付喪神絵巻』なのではないかというのである。この絵巻の中には、確かに人間の模倣をする器物たちが、造化の神を祭り、行進する場面がある。とはいっても、崇福本には彼らが列を成している場面がなく、詞書でのみそのことが分かる。小松和彦は、百鬼夜行の鬼たちは集会をしに行進をしている。と考えている。絵巻の最後に出てくる赤い丸い物体は、日の出であり、妖怪たちは日の出を恐れて逃げ惑うとなっている。
だが、私は以前から常々この赤い丸い物体が日の出には見えなかった。日の出というものはどちらかというと、すがすがしいやさしげなものである。しかし、この火の玉は黒地を背景とし、火まで吹き上げて、攻撃的な感じすらする。本来なら今まで行進してきた背景のほうが暗く、最後に明かりを差していてもいいのに、最後のほうがむしろおどろおどろしいのはなぜか。日の出とともに逃げ惑うのは納得いかなかった。だが、付喪神絵巻の祭祀部分と考えると非常に納得いく。百鬼夜行に遭遇してしまった関白の身に着けていたお守りが放った炎なのだ。確かにこの赤い丸は火を噴いている。
それだけではなく、この妖怪たち、祭りを行っているように見えないだろうか。立烏帽子を被る妖怪こそ見えないが、祭祀を読む妖怪や、御幣を持つもの、「小鈴の八乙女」にあたりそうなものもみえる。
突然このような絵柄が現れたというよりも、当時人気のあった物語の一場面をとり、飾ったと考えるほうが自然だ。ただ、それが時代は下がり、物語が忘れられて意味が分からなくなったのではなかろうか。それに、崇福本に行列の場面がないのは、原本かそれに近いものにおいて、祭りの場面を気に入ったものが、その場面だけを切り取り、別に仕立てたとは考えられないだろうか。その結果、行列のない絵巻が残り、創意工夫が重ねられ、肥大した行列が出来上がった。ただ、違う流れで作られていったので、もととは随分変わってしまったのではないかと考える。
列の中に動物や、鬼としか言いようのないものが混ざっているのも、初期のつくも神の属性を考えれば、その当時のものが伝わり、それが動物の姿になったつくも神ではなく、動物の怪と認知されてしまったのではなかろうか。また器物も動物も、年を経たものが化けるという考えにもとづいているのであれば、両者の区別は単になされていないのであろう。狸が茶釜に化けるのであれば、茶釜が狸に化けることがあるのかもしれない。
中世は仏教が文化をリードし、人々は来世の豊かな生活を願った。だがこの時代になると、人々は現実の生活を重んじだした。この頃の宗教、一向宗には現実肯定なところがある。民衆は現世利益を重んじ、仏教は衰退しだし儒学が出てくる。
そのためか妖怪的な作品はなく、妖怪画暗黒期を迎える。だが、この頃にでてきた奈良絵本には御伽草子的な話が多く、ここで江戸につながる庶民の芸術が垣間見える。
*1 火鉢や炉の中に釜鉄瓶、ヤカンなどをかける道具。三脚または四脚で、鉄・陶器製の輪を持つ道具。
*2 左右に二本ずつ、角のように長い柄の出た盥。多くは漆器で平安時代から中世にかけ、洗顔に用いた。
*3 煤掃きと同義。正月の神を迎えるために、屋内の煤や埃を払い清めること。室町時代には古くなったものを道端に捨てた。
*4 中世国文学、中世宗教文化を研究しており、第16回日本古典文学会賞受賞。著書に『日本ファザコン文学史』『<悪女論>』『外法と愛法の中世』『性愛の日本中世 』など多数。梅花女子大学文学部助教授等を経て京都精華大学教員。
つくも神たちは室町時代以降には廃れていく。では、本当に器物の怪はいなくなってしまったのだろうか。
室町時代には鬼に代わる存在であったつくも神たちは、出版メディアや、キャラクター文化が発達した江戸時代に追いて、怪奇としての面よりも、愛すべきものの側面をさらに備えてくる。
これから取り上げるのは草双紙だが、絵を前面に出し、物によっては内容も絵も個人で手がけている点、非常に現代の漫画に近いものがある。(*1)このような化け物がかかれる点でも似ており、現代の漫画文化の中の妖怪の変容をたどる点でも、注目すべきものであろう。
室町時代に流行ったつくも神は、次第に廃れていく。だが、形を変えて、彼らは残っていったと私は考える。
江戸時代初期における、妖怪画を探すには、草双紙が主なものであろう。草双紙の初期のもの、赤本、青本、黒本、などの、主に子供向けに書かれた、御伽草子的なものや黄表紙に特に描かれていた。
例えば、赤本時代の昔話物なら、『さるかに合戦』(図E)などが代表的だろう。この本の場合妖怪としてではないが、器物の擬人化という点で姿がよく似ている。擬人化の特筆すべき点は、器物にかかわらず、人の頭に、物を載せただけで、そのものの属性を現しているという点である。大体に現代見ることのできる「さるかに合戦」は、蟹は蟹としてかかれているが、この場合は頭の上に載せている。サルだけは、もともと体つきが人間に近いためか、サルのままで登場する。
ただ、臼や杵に見られる表現は、器物がそのまま顔になっているという、割と古典的な表現をとられている。『土蜘蛛草子』でも、つづら箱などは、頭が箱というこのようなタイプであった。ただ、あれに見られる杵の表現は、トカゲのような、杵自体から足の生えた、もっと原型に近いものであった。だがこれの場合は、頭から棒が生えたようになっており、棒の真ん中に丸い顔まである。もっとも器物の属性を残しているのは臼で、頭の臼に直接顔が描かれている。
ただ、次の場面には卵は卵、蛇は蛇、蜂は蜂と描かれている。この時代の本の中には、普通の話を物や動物に置き換えることにより、おかしみを誘うことを目的としたものがある。これも、その系譜に近いものを感じる。単なる擬人化といったところか。
赤本の中でも化物といった形で器物の怪を見ことができるものに。『化物よめ入り』(図F)がある。これでは化け物の嫁入りの様子が描かれている。このタイプのものは、赤本だけでなく、黄表紙、肉筆の絵巻、はてはおもちゃ絵(*2)などにまで描かれる、人気というか、一般的な絵柄であったようだ。つくも神がメインではないが、もちろん彼らも登場する。
器物だけあって、彼らの使われ方は、器物の属性をいかんなく発揮できる役割についている。例えば、茶釜がお茶を汲み、包丁が料理をする。塗桶(*3)が医者をする。このような書き方をするとなんとも珍妙だが、実際そうなのだ。このタイプの使用人格の妖怪たちは、顔だけが器物で、体が人間である。作者もこって、服装にその器物にかかわりのある柄をあしらったりする。人としての属性の強さだろう。
ただこの話には、もう一つのタイプの器物の怪が出てくる。それは、物が化けたものだ。こう表現すると、先ほどの使用人格の物も器物だが、今度は日常用品や、婚礼用品が化けだすのだ。この『化物よめ入り』では、婚礼用品を運ぶときに、道々化けているようだ。このような化物どもは、器物から直接手や足が生えている。顔も器物にそのままついているようだ。だから服も着ていない。
この器物の嫁入り行列はどことなく百鬼夜行を思い起こさせるのは気のせいであろうか。他の動物ベースなどの化け物も、服を着て、人のようななりをしているので、このページが一番化物らしさをかもし出しているように感じる。
ほかにも『是は御ぞんじのばけ物にて御座候』という化け物の争いを描くものでみられる。見越し入道(*4)がももんぐぁ(*5)の人気に嫉妬し、ももんぐぁ一味に戦いを仕掛ける話である。その中で、器物の怪はももんぐぁ一味の家来に多く描かれている。槌入道、塗桶、やかん天狗など、である。やはりこの場合も、体は鎧なので人の属性が強いのであろう。器物にかけた冗談をおりまぜている。
やがて時代は黄表紙の時代に移る。この頃の黄表紙を手がける絵師には、日本発のプロ作家として有名な十返舎一九が文だけでなく、絵を手がけていると思えば、歌川豊国、国芳などの浮世絵師として有名どころが絵を担当している場合もある。当然、妖怪ものもよく見られるテーマで、十返舎一九だけでも二十もの化物尽くしの黄表紙を手がけている。その中において、黄表紙のつくも神はどうであろうか。
まず『妖怪一年草』という作品の中、お盆の場面で切籠灯籠が給仕の役をしている。十月の下卑須講(恵比寿講にかけた駄洒落)で、大食いをする三匹の化け物の相手をしているものが、酒樽の化物。その後ろで羨ましがっているのが燭台の化物。である。この燭台は食滞とのしゃれのために登場している。
他にも十返舎一九の『化け物の嫁入』(図G)などもある。
最初から最後まで、こまごまとした日用品に当たるものに目や手足が生え化物たちに給仕をしている。というか、登場するすべての器物が化け物だ。これは、赤本時代と同じようだが、赤本時代はそこまで登場が多くなかったのに、それ以上に徹底的にこまごまと妖怪化させている。話とは関係のないところで妖怪化させているのだ。まず、化け物の息子への見合いの場面では火鉢が勝手に茶を入れている。水茶屋(*6)の場面では茶釜が文福茶釜とかけて、狸の頭と尻尾がでている。結納品などは自ら歩き出す始末。
さらに嫁入道具を準備する場面で、土蜘蛛の店にいくと器物に手足がつけられることが発覚する。これは一九のオリジナル、もしくはこの時代ならではの発想か、それとも昔からあった考えなのか。おそらく前者であることと思われる。土蜘蛛というのも、手足がたくさんあまっていそうなところからか。それならば、なぜムカデではないのであろうか。なんにしろ、今までの異様に多い、手足がついた器物たちがこれで説明される。
とうとう、つくも神という永い時を得て妖怪化した物から、インスタントに手足をつければ妖怪になる、お手軽でかつ、便利な妖怪になってしまったのだ。これは、この時代の器物の妖怪が室町時代と比べていかに衰退して言ったかが如実に現れている例だと思われる。江戸時代にはすでに、百年たった器物が化けるといった考えすら一般的でなかったのではないだろうか。
このように多くは駄洒落や小道具としての活躍が主であり、当時の人々の「粋」の演出に使われている。
江戸時代に描かれた妖怪物の図画集で、もっとも有名なものといえば、鳥山石燕の『百鬼夜行図』であろう。狩野派の画家である彼がなぜこのような本を出版したのか。石燕と同じ狩野派の画家の描いた妖怪図鑑がある。『百鬼夜行図』には、その流れを汲む狩野派の妖怪も見られる。
江戸時代の随筆家、喜多村?庭(信節 1783−1856)が1830年に書いた『嬉遊笑覧』という風俗百科事典のなかで「花山院のあそばしたるめかヽうは伝はらす。光重か百鬼夜行を祖として元信などが書たるものあり。扨その奇怪の物になあるは浄土絵双六など其始にや」つまり「化物絵」は狩野元信によって描きはじめられたとある。狩野派の手習い本として、元信の妖怪画があったのであろう。
この系統の妖怪画の特徴は『百鬼夜行図』の妖怪たちは、個々に分類しきれるものではなく、集団としてみる事に重点があったのとは違い、狩野元信から連なる妖怪画の系譜は、個々の妖怪を分類し、名づけ、図鑑のようにすることである。元信自体の妖怪図鑑は見られないが、それの模写と思われる作品に、佐脇崇之の『百怪図巻』、『化物づくし』、『化物絵巻』などがある。石燕の『図画百鬼夜行』の中にもこの狩野派系統の妖怪は「夢の精霊」を除いてすべて登場する。だが、これらの図画集には器物の怪は見られない。
だが、石燕は、『百器徒然袋』(図H)という器物の怪のみを集めた著書も描いている。
この『百器徒然袋』にも、石燕の他の著書と同様に(厳密には今昔以降)妖怪一つ一つに解説がつけられているが、その終わりがどれも、「夢心におもひぬ」「夢のうちにおもひぬ」「夢の中におもひぬ」などという一文で締めくくられている。つまり、最初から想像だと言う前提で描かれているのだ。(*7)
もっとも、石燕の『百鬼夜行図』は妖怪を絡めたパロディー集でもある。その点では黄表紙と似ている。それでも、巷に流布する妖怪を登場させて、逸話も載せているのでまぎらわしい。
これは、吉田兼好の著書『徒然草』と『百鬼夜行絵巻』をからめて描かれている。『百鬼夜行絵巻』に出てくる妖怪たちを、『徒然草』を中心とする文学作品にかけて描くという、パロディーのようなものになっている。これは、器物の怪が妖怪のキャラクターとしては人気であったにもかかわらず、怪異としては成り立っていなかったことを表している。
器物の怪といえば、百鬼夜行に登場する、つくも神が伝統的に受け継がれている。ただ、江戸時代からは、百鬼夜行とはいっても、図鑑型のものが中心となり、様子が変わってくる。さらにこの図鑑型は、個々の妖怪に名付けを行い、地方の実在をまことしやかに信じられていた妖怪系を備えた、実質ともに図鑑的なものである。ゆえに、キャラクターとしての性質の強いつくも神たちは図鑑タイプでは追いやられている傾向がある。
だが、絵巻の形態のものは、以前の形態を残したものもつくられており、伝統的な型を踏みつつもアレンジが加えられ、それぞれの発展を見せている。絵巻でなくとも、有名なところでは伊藤若冲の『付喪神図』などがある。(図I)
つくも神は百鬼夜行ものでは『百器夜行』という新たなるジャンルを開拓した。
浮世絵で妖怪画が見られだすのは、19世紀以降のことであり、それ以前は役者絵と美人画がほとんどであった。その頃、山東京伝や滝沢馬琴の伝奇物の読本が流行し、その物語の中に主人公の敵役として妖怪たちが出てくる。それに呼応し、錦絵にも武者絵が誕生し、主役の敵として共に描かれる事となった。だが、武者絵に出てくる妖怪は凶悪で残忍なもののせいか、器物の怪が描かれることはあまりなく、
国芳の『源頼光館土蜘蛛作妖怪図』(図J)にはつくも神が登場するが、これは風刺をするために、源頼光の背後にうごめく妖怪たちに、器物の機能を重視している。地方の特産物を妖怪にし、何を表すかを表現しているのだ。さらに、大勢の中にしか登場しない。
他の国芳絵に出てくる器物は擬人化が多いだろう。例えば、『こま尽くし』などでは、こまの顔をしたものが出てくる。このタイプの擬人化は人間性重視の場合によく見られるものである。国芳の器物の怪は妖怪という点よりも何かを揶揄するためのようだ。
結局『百鬼夜行』ものに描かれることの方が多い。ただ、『百鬼夜行』には、駄洒落なのか、『百器夜行』というものが現れ、器物のみで構成されるタイプが出現する。 石燕の『百器徒然袋』をはじめとし、明治だが、月岡芳年なども『百器夜行』を描いている。
器物の怪は見た目が愛らしいせいか、おもちゃ絵によく見られ、『化物尽くし』(図K)と呼ばれる細かく化物のみを描いた作品や、双六などにみられる。これらでは、石燕の『図画百鬼夜行図』に出てくる妖怪というよりも、黄表紙でおなじみのものが中心となっているようだ。そのためか、石燕のきれいに展示されたような化物ではなく、もっとくだけた印象を絵から受ける。石燕の妖怪はまだおどろおどろしいが、黄表紙やおもちゃ絵は滑稽な感じが強い。さらに、このようなおもちゃ絵には器物の怪が多く、おなじみの傘お化けや、ヤカンお化け、お釜のお化けは自分で、杓文字まで用意している。物によっては、『土蜘蛛草子』に出てきた角盥とまったく同じものもいる。
『志ん板猫のふきや』という歌川芳藤というおもちゃ絵で有名な絵師の作品では、擬人化された猫が『からくり的』をしている。その的には、化け灯篭、提灯お化けなどがおり、実際の場でもこのような妖怪たちが的になっていたのではないかと、推測される。
この時代、器物の怪は庶民派妖怪だったのだ。
明治以降近代化のあおりを受けて井上円了をはじめとする人々が、迷信の名のもとに、妖怪を否定しだす。それとは逆に、柳田國男は民俗学研究の一環として伝承としての妖怪を集めだす。いくら撲滅を掲げても怪談はいつの世にもあるもの。
明治以降妖怪が廃れていったわけではない。明治期の新聞などを見ると、公然と妖怪的な話が載せられている。地方ではまだまだ信じられていたようだ。井上円了は妖怪を撲滅しようとしているように見えるが、彼は真怪(本物の妖怪)の存在を認めている。
だが、西洋化がまず入ってくるのは都会である。画の中心も都会。このような理由で妖怪画が減少したのではなかろうか。明治期には多くの画家たちが西洋画に向かっていった。芳年や暁斎は西洋絵画に手を出しつつも、妖怪画を手がけている。
日本画というジャンル自体は海外からの再評価もあり、廃れることはなかったが、政府の政策で迷信を廃絶しようとする動きに、都会から浸透していき、そのあおりを食らったのではなかろうか。
つまり、怪異は廃れていないが、画のテーマとして描きにくくなってしまったのではないか。
西洋画の写実表現に日本画家達はこぞって走っていったのと、妖怪画を支えていた層は、画家というよりも、絵師であったという感じがある。つまり、民衆のための絵から離れて行ったのではなかろうか。だから浮世絵新聞などでは奇怪な絵が見られるのだろう。
日本画においても、風神雷神、龍などの古典的なテーマは残っても、百鬼夜行は見られない。浮世絵とともに廃れてしまったのだろうか。だが対照的に、おもちゃ絵などではあいかわらず黄表紙で活躍していた妖怪たちが見られる。
妖怪を描いたことで有名な浮世絵師に月岡芳年、河鍋暁斎らがこの時期の最後の妖怪画家だ。
師匠の国芳の妖怪表現は器物にかかわらず、メッセージ色が強かったように感じる。それでは芳年ではどうであろう。
彼の作品には若い頃のものだが『百器夜行』(図L)がある。これは、名前のとおり器物のみの妖怪画だが、そこに現れる妖怪たちは、石燕の『百器徒然袋』を参考にしているのは明らかである。それでいて、器物たちがユーモラスなイメージを受けるのは、作者の表現力だけでなく、器物たちの存在もある。
暁斎は『暁斎百鬼画談』(図M)、『暁斎楽画』(化々学校)『変化図』、『百鬼夜行図屏風』、『暁斎酔画』(百鬼夜行)『暁斎鈍画』、『妖怪図帖』などに器物の怪が見られる。伝統的な百鬼夜行図にはつくも神は欠かせないといったところか。ここでも分かるが、百鬼夜行に特によく混じっている。彼の絵は芳年以上にユーモラスな感じがし、漫画的である。漫画文化と妖怪は相性がよいのかもしれない。
*1 草双紙がもともと子供向けのメディアとして登場し発展をして、黄表紙などの大人も楽しめるものから、合巻のような本格的な長編になっていき、作者と絵師が次第に専門化されていった経緯は、今の漫画文化に非常によく似ている。(子供向け、大人も読める、長編化、原作と作画の分担)さらに、人気の伝奇物が浮世絵になったり、歌舞伎で上映されるところなどは、漫画がキャラクターグッズ化するのや、アニメ化、ドラマ化、舞台化するのに近いのではなかろうか。
*2 子供向けに書かれた錦絵。通常のものよりも小さく、こまごまと描かれることが多い
*3 江戸時代のアイロン
*4 見上げれば見上げるほど大きくなる僧行の妖怪。黄表紙では化物の親玉としてよく登場する。
*5 ムササビのことでもあるが、古くは化け物の総称であり、子どもが「ももんぐぁ」といって相手を驚かし遊んでいた。
*6 今でいう喫茶店のようなもの。江戸ではここで見合いをすることが多かった。男が座っている間、女が通りかかり偶然に見初めるという芝居をする
*7 中世時代までの夢信仰は、現実を超えたところにあった。だが江戸時代では「金々先生栄花夢」に見られるように神秘性よりも荒唐無稽さや虚構性に重点が移り、現実から離れて自由に空想するための手段とされた。特に黄表紙では夢オチが多い。ちなみに現代では夢オチはもっとも嫌われる物語の終わらせ方となってしまった。
まず、つくも神の絵画表現をまとめてみたい。
@は、『付喪神絵巻』(崇福本)を見ていただければ分かると思うが、まず登場する器物たちは本当に器物でしかなく、詞書がないと何が行われているのかがさっぱり分からない。京都大学図書館所蔵のもの(図N)では器物たちに目、鼻、口が描かれている。他には擬人化という点では、草双紙の『猿蟹合戦』に登場する器物たちが猿に復讐する場面では原型で書かれている。前者の場合は妖怪化する前だが、会話をしているので、ほぼ妖怪といってもいいだろう。後者は復讐するときに自分の特性をいかすためだと考える。
Aは『付喪神絵巻』(崇福本)をもう一度見ていただくと、節分の日に器物たちが鬼となる場面がある。その前のページではすべて器物なのに変化したものたちは、大方原形をとどめておらず、動物のように見えるもの、鬼のように見えるもの、人のように見えるもの、よく分からないものになっている。かろうじて、花瓶がCのようなタイプに変化している。このことは化物としての色合いが濃い。器物たちは化けた結果このような格好をしている。『陰陽雑記』に「器物百年を経て、化して精霊を得てより、人の心を誑す、これを付喪神と号すと云へり。」とある。つまり、器物の怪というよりも、本当に鬼になってしまったものと考えたほうがよいだろう。『付喪神記』にも、人心をたぶらかすようになるとある。『長谷雄草子』で鬼が化けていたり、『玉藻草子』で狐が化けるように、この当時の妖怪は化けなければいけないのだ。それはつくも神にもいえること。だからAのタイプは完全に別の形状をしているのではないかと推測する。
Bは『付喪神絵巻』(崇福本)では見られない。しかし、京都大学図書館所蔵のものでは何体か見られる表現だ。その他にも『土蜘蛛草子』に出てくる角盥は形の一部を手足に見立て、杵は足を生やしている。他に、十返舎一九に限らず、『化物嫁入』などの化物世界を扱ったものでは、日常用品に顔と手足が付く場合がある。この場合は、登場人物というよりも、世界観を作り上げるのに一役買っている。意外なことに『百鬼夜行絵巻』(真珠庵本)にはこの手のものがいない。一番近いのが琴の妖怪だが、ワニのような体と尾を持っているので少し違う。
CはAがさらに器物みを帯びたもので、『百鬼夜行絵巻』(真珠庵本)を中心として最もよく見られるタイプである。人間が個々を識別するのに最も使われるのが顔であるように、頭部を器物にすると、体だけ器物よりも分かりやすいからではなかろうか。『百鬼夜行絵巻』と呼ばれるものに登場する器物の怪はほとんどこれに相当する。とくに、体が動物や、化物タイプがほとんどである。
それに比べて草双紙物の器物の妖怪たちは、確かにこのタイプだが、頭部だけが器物で体は完全に人間化しているのがほとんどである。この違いは伝統によるものではないかと推測する。『百鬼夜行絵巻』は室町時代の作品を絵手本として、忠実な模写を中心とした伝統的なモチーフである。それに対して黄表紙に出てくる妖怪たちは、キャラクター性が強く、さらに擬人化する傾向がある。
話の内容を考えてみても分かるが、多くの黄表紙の妖怪ものがパロディーであり、何のパロディーであるかといわれれば、それは人間の生活自身だ。『妖怪一年草』という黄表紙は、人間世界とは逆に、あばら家が高級住宅で、不細工が美人。花見の変わりに穴見をし、節分には「鬼は内、金時は外」と豆をまく。これらのキャラクターはもはや、人間の敵ではなく、愛すべきキャラクターになってしまった。それが人の体を持つ器物の由縁ではないだろうか。
絵本百物語という、妖怪ものでは有名な書物がある。当時流布していた怪談や、古くから伝わるもの、中国の怪談などが混ざっている。だが、この中には器物の怪は登場しない。これはなぜか。
『日本霊異記』では、盗人に盗まれた仏像が助けを求める話などがある。これは、仏教の属性が強いので、器物といっていいかは難しいところだが、人形のものは霊が宿りやすいという考えが入っているだろう。
室町時代だと、二章でも紹介した『化物草子』に見られる案山子の話や、柄杓、銚子の話がある。『付喪神絵巻』は仏教の宣伝色が強いため、作り話であろうが、当時の人が怪異の原因を器物に求めたと考えられる。つまり、何か怪異がある。その現場に何か落ちていた。それが原因である。といった次第だ。このようなパターンの話は伝統的にある。
まず、ある日をきっかけに次々と不幸が起きる。そのある日にはAとかかわる。原因はAかもしれない。それをどうにかしたら、それ以来不幸が起こらなかった。原因はAである。
このAは時代を象徴するものがはいる。昔でいうと、
「狐を殺す→狐憑きになる→供養する」
という図式が立つ。現代ならば、
「引越しする→怪異が起こる→家が原因→改めて引越し→怪異は起こらなくなる→後日談、もともとあの部屋では自殺者がいた」等。
この典型で、室町時代には、
「怪異が起こる→起こった後には物が落ちていた→原因は物」
というような図式が成り立っていたと考えられる。これらは、その時代においては現代我々が幽霊におびえる以上の恐怖を持って捉えられていたのではなかろうか。もっとも現代においても人形などは祟るというが。
江戸時代になると、百物語は流行ったが、特に器物は多くはない。この頃の仏教は江戸幕府によって整備されて昔ほどの覇気はなくなってしまった。民衆の考え方も来世へ願いを託すよりも、現世利益中心になっていった。それでも怪異がまったくなくなるわけではない。
『新説百物語』四巻、 『人形いきてはたらきし事』という話がある。旅の僧が、偶然泊まった家で、人のように動く人形を手に入れる。その人形は次々とこれから起こることを予言し、気味悪がった僧は人形を笠で流して捨ててしまったという話だ。
人形が怪異をなすというものは、現代でもよく語られるものであり、古い日本人形の髪の毛が伸びる話や、小学校の二宮金次郎像が走るというものがある。人形のものは霊が宿りやすいというため、人形やぬいぐるみは非常に捨てにくいという人は多いだろう。他にも持っているだけで呪われるアイテムが出てくることは多い。
にもかかわらず、器物の怪の絵画表現を見ると、人形のものはあまり見ない。これはなぜか。おそらく人形を絵にしても面白くないのが原因ではないかと思われる。想像してみて欲しい。『付喪神絵巻』の器物の中に人形が入っていたら、人と区別がつかない。
それだけでなく、器物がつくも神になるとき、人のような姿をとるのは人型に宿りやすいという言葉の逆転ではなかろうか。
近世以降もっとも怪談として恐れたれたのは人、すなわち幽霊である。本当に恐ろしいのは人間ということか。
彼らが怪異に近づくためには人型をとらねばならないのかもしれない。
戦後、再び妖怪たちが日の目を見ることとなる。
戦後の復興の中、妖怪たちはディズニー文化などをまじえ、より擬人化文化が発展していく。科学万能主義の中、切り捨てられていった妖怪たちは、キャラクターとしての側面をますます強め、更なる発展をする。
まず、戦後ゴジラ、ウルトラマンのような怪獣が子どもたちに絶大な支持を受ける。これらは、キャラクターとしてのみ成立するという点では、江戸時代の妖怪たちと近しいものがある。それらの魅力的な怪獣を紹介する本に『怪獣図鑑』系の本が発売される。妖怪は妖怪で『妖怪図鑑』ブームを迎える。図鑑形式の妖怪画集は江戸時代より存在した。石燕の『図画百鬼夜行図』などが代表的である。
昭和に入ってからも、新しい妖怪図鑑は子どもたちの心をときめかせた。水木しげるを筆頭とし、他に佐藤有文の『日本妖怪図鑑』、中岡俊哉の『日本の妖怪大図鑑』などの様なものが発売された。その中に入っているのは、伝統的な妖怪に加え、明らかに作者の創作であろうものが混ざったりし、一種の怪獣図鑑のようなものである。今現在見ると首を傾げたくなるような内容でも当時の子どもたちの心に深く印象づけた。また、水木しげるを中心とする貸本屋系の漫画家は劇画と呼ばれるタイプの作品を作り出し、その中でもホラー漫画の一種として好まれた。
しかし、もともとキャラクターとしてしか存在するのが難しい器物の怪たちはますます影を潜めていくしかなかった。だが私は考える。彼らは形を変えて現代も存在しているのではないかと。
現代キャラクターとしての妖怪は流行り、漫画やテレビゲーム、お菓子のおまけなど様々なところで見ることができる。妖怪が好きだという人も多く、『ゲゲゲの鬼太郎』をはじめ、『うしおととら』、『地獄先生ぬ〜べ〜』などの妖怪の登場する漫画では、鳥山石燕や、柳田國男が取り上げた、かつての妖怪のキャラクターを使い、それぞれの作家独自の展開を見せている。
だがそこにあるのは、現代に生きる妖怪ではなく、化石となってしまった過去の遺物である場合が多い。いまさら、天狗や河童を信じている人間など一握りに過ぎない。もやは、戦前までの妖怪たちはリアリティーを失い、形だけのものとなってしまった。これは、田舎ならともかく、江戸時代にも都会で描かれた草双紙ではそうなっていたようである。豆腐小僧などはまさにその例である。
つくも神また、もともと姿とキャラクターだけで残っていた存在であった。そうでなければ、実際の器物の怪異譚は人形などの人型の物が中心なのに、描かれるものは塗桶、ヤカン、槌などの日常生活でよく見るようなものであるのは奇妙な話だ。
だが、私はつくも神の姿は、擬人化されたキャラクターの中で残っているのではないかと考える。それは、やなせたかしの『アンパンマン』などを中心として、見受けられる。器物の怪が明治時代おもちゃ絵でよく見られたように、これらの形は大変分かりやすく、一目見てそのキャラクターが何の属性を持っているのかが分かる。
『アンパンマン』では、登場人物の顔がその人自身を表す重要な要因となっている。登場人物はほとんどが食物だが、加工されているという点では、器物の怪に相当すると思える。主人公自身も顔が重要な要因となっており、顔を汚されると力がなくなるなど、器物の属性を重要視している。つまり、器物の怪から器物の部分をなくせば、それ何なのか分からない存在になってしまうのである。「かまめしどん」(図O)なるキャラクターは、江戸時代にいたお釜のお化けと大差のない姿をしている。
だが、想像していたよりも、絵本、漫画文化において、器物の擬人化は少なく感じた。『鉄腕アトム』のような機械でありながら心を持つ、魂が宿ったと考えられるようなものは漫画に多い。『ドラえもん』、『Dr.スランプ』などは、ロボットであるがゆえに、人間離れしたことを起こしても許される世界観がある。すべてのものに魂が宿るという、つくも神に対する思想から、これらのロボットキャラクターたちは人気なのかもしれない。では、もっと「モノ」に近い姿をした擬人化表現はどこへいったのか。
現代、巷にはキャラクターが溢れている。多くの企業が自社を象徴するキャラクターを持ち、それを活用しつつ宣伝をする。コマーシャルを見てみると、その多様性がよく分かるだろう。もちろん、キャラクターを一切使わずに、インパクトで狙うところもある。人気アイドルを起用したり、既存のメディアで成功したキャラクターを持ってくるものもある。その一方、自社独自のキャラクターの人気で好き感度を上げるところもある。
キャラクターの多くは、動物だったり、子どもを中心とした人型で、好感度をあげるのを目的としている。だが、キャラの魅力中心よりも、自社のイメージ、もしくは商品のイメージを優先させた場合「モノ」がキャラクター化する。
まず、お菓子のイメージキャラクターにそれは多く見られる。「ポリンキー」(図P)のコマーシャルを知っているだろうか。お菓子に顔を付け、手足をつけた姿をしたキャラクターが登場し、歌うさまは商品のインパクトをあげ、さらにキャラクターで印象付ける。
テレビ局では、「テレビヤン」(図Q)という読売テレビのキャラクターがあげられる。これはテレビモニターに顔がついただけという、非常にシンプルな形をしている。このキャラクターを見ると、「付喪神絵巻」(京都大学図書館蔵)の最初に登場する、相談する器物たちを思い出す。ここまでくると、もはやつくも神とは言えないかもしれない。だが、かれらはキャラクターという枠組みで新しい場所を得ているのではなかろうか。江戸時代のつくも神たちも、もはやキャラクターと呼ぶしかないようなものであった。そう考えると絵画に描かれた妖怪というものは、絵にされた時点でキャラクターの要素が強くなっていったのではなかろうか。絵画の中で新たな場を得た時点で、彼らはメデイアとともに生きる宿命を背負ったのだ。
今回のこの文中において、妖怪という定義についてだが、民俗学でいう妖怪というものは、自然現象への畏敬から出現したもの、異文化への恐れから生み出されたもの、などの、怪異を伴ったものが妖怪とされている。
一方、江戸などにおける、作られた妖怪たちは研究の対象とはならなかった。しかし、この文章は民俗学の研究ではない。美術だ。民俗学と同じような定義で美術における妖怪を捉えたら、体験談をともにした目撃図しか入らなくなってしなう。妖怪画と民俗学の妖怪は違うのだ。
妖怪画とは、人々が、妖怪をキャラクターとして捉えたものも入れなくてはならない。鬼の表現も、地獄が入ってからの鬼はすべて地獄風になってしまうような変化が起こっている。それでも、人々がそれを妖怪と思う限りそれは妖怪なのだろう。
ポケモンは妖怪かどうかという話をよく聞く。彼らの並べられたさまは、まるで百鬼夜行だ。彼らには今までの妖怪に流れる民俗社会の伝統や流れがないからポケモンは妖怪とは呼べないと考える人もいる。
確かに企業のキャラクターとして作り出された彼らは、一見背景のないように見える。だが、彼らの背景には、その時代の世相や文化があって誕生したのではないかと私は思うのだ。電気ねずみだから、雷を表す「ピカ」と、ねずみの鳴き声である「チュウ」を足した「ピカチュウ」。ユリゲラーに訴えられた超能力ポケモン「ユンゲラー」など、この時代の我々には一発で元ネタがわかるようになっている。キックの鬼「サワムラー」などは少々ネタが古く子供にはわからない気がするがそれもまた味である。
それもまた石燕の「百鬼夜行」が駄洒落のオンパレードであったことを考えれば、日本人はこういうものが好きなのではないのかとさえ思う。
オリジナルな創造物ならば、あんなに流行しなかったし、残らなかったと江戸のキャラクター妖怪の代名詞「豆腐小僧」(*1)について京極夏彦(*2)は語っている。が、それは著作権の問題が絡んでいるのではないだろうか。江戸時代は著作権がないので、人の作った妖怪を真似しても何も問題にはならなかった。だが今では著作権上の問題により、個人がキャラクターの性質を捻じ曲げることはできない。仮に私が、ピカチュウには白いのがいると言い張っても、誰も信じないし、任天堂もそんなことは認めないであろう。このような点で、ポケモンは純粋な妖怪ではないかもしれないが、江戸のキャラクター文化を受け継ぐものではあるだろう。
つくも神は現代ではまったくといっていいほど廃れてしまった。でてくるとしたら、漫画のキャラクター、ゲームのキャラクターぐらいである。ゲームでは敵として出てきても、一見器物が怪異を起こしているように見えても、実はポルターガイストなどの西洋的な現象と混合されて登場している場合がある。
漫画では妖怪物を扱ったものの中で敵や下端として登場する。まれに、ファンタジーの中で、作者がつくも神と紹介しているものがあったぐらいだ。
だが、つくも神の姿は、日本人が思い描くもっとも妖怪らしい妖怪である。
海外の絵ではボッシュの奇妙な絵の中に器物は出てくる。しかしそれはあくまでも悪魔であり、器物自身とは考えられない。あくまでも器物が動くのはポルターガイストだ。
『付喪神絵巻』(崇福寺)では変化した後の器物は完全にモノの形から脱しているものが多い。今、日本はもっともロボット産業が進んでいる。このロボットたちももとはモノに過ぎないのにその形を脱して生き物の姿を取り出した。そしてわたしたちはそれをこよなく愛する。
このような、器物に魂があるという考えは、日本人の感性の豊かさを表す誇るべき文化である。
*1 豆腐を持った小僧の妖怪。キャラクター妖怪の代名詞。
*2 妖怪小説家、代表作に『姑獲鳥の夏』、『嗤う伊右衛門』、など多数。『後巷説百物語』で直木賞を受賞。
<単行本>
『鳥山石燕 画図百鬼夜行』高田衛監修 稲田篤信 田中直日編 国書刊行会 初版 1992
『竹原春泉 絵本百物語―桃山人夜話―』多田克巳編 国書刊行会 初版 1997
『妖怪図巻』多田克巳編 国書刊行会 初版 2000
『妖怪百物語絵巻』湯本豪一編 国書刊行会 初版 2003
『江戸化物草子』 アダム・カバット編 小学館 第1版 1999
『大江戸化け物細見』 アダム・カバット編 小学館 第1版 2000
『暁斎妖怪百景』京極夏彦 多田克巳編 国書刊行会 初版 1998
『芳年妖怪百景』悳俊彦編 国書刊行会 初版 2001
『国芳妖怪百景』悳俊彦編 国書刊行会 初版 1999 112p 26cm 4000円
『日本絵巻大成25 能恵法師絵詞 福富草紙 百鬼夜行絵巻』小松茂美編 中央公論社 1979
『新修日本絵巻物全集. 別巻 2』 田中一松監修 角川書店 1981
『図説百鬼夜行絵巻を読む』 田中貴子 花田精輝 澁澤龍彦 小松和彦著 河出書房新社 初版 1999 『図説日本の妖怪』 岩井宏實監修 近藤雅樹編 河出書房新社 新装版初版 2000
『お化け図絵』 柏三平著 芳賀書店 1973
『江戸滑稽化け物尽くし』 アダム・カバット編 講談社 2003
『異界万華鏡−あの世・妖怪・占い−』 国立歴史民俗博物館編 歴史民俗博物館振興会 2001
『江戸の妖怪絵巻』 湯本豪一著 光文社 2003
『日本その心とかたち8 幻想に遊ぶ』 加藤周一 NHK取材班著 平凡社 1988
『異界と日本人−絵物語の想像力−』 小松和彦著 角川書店 初版 2003
『別冊太陽 日本の妖怪』 高橋洋二編 平凡社 1987
『妖怪事典』 村上健司著 毎日新聞社 2000
『日本妖怪異聞録』小松和彦著 小学館 1992
『妖怪学新考−妖怪からみる日本の心−』 小松和彦著 小学館 1994
『妖怪あつめ』 湯本豪一著 角川書店 2002
『妖怪と楽しく遊ぶ本』 湯本豪一著 河出書房新社 初版 2002
『明治妖怪新聞』 湯本豪一編 柏書房 1999
『近世子どもの絵本集 江戸編』 鈴木重三 木村八重子著 岩波書店1985
『草双紙』榎一雄編 貴重本刊行会 1974
『繪畫に見えたる妖怪』吉川観方編 京都文化資料研究會 1952
『妖怪馬鹿』京極夏彦 多田克己 村上健司著 新潮社 2001
『続日本の絵巻26 土蜘蛛草紙 天狗草紙 大江山絵詞』小林茂美編 中央公論社 1993
『特別展 おばけ・妖怪・幽霊』兵庫県立歴史博物館編 1987
『図説日本文化史 第8〜10』 児玉幸多編 小学館 1957
『暮らしの中の神さん仏さん』 岩井宏實 文化出版 1980
『日本の夢信仰』 河東仁著 玉川大学出版部 2002
『日本の仏教 第6号』日本仏教研究会編 法蔵会 1996
<雑誌記事・論文>
『郷土研究上方 妖怪変化ものがたり 器物の変化,付喪神』
巻・号/通巻・号 3巻33号/通巻33号
江馬務著 上方郷土研究会発行1933
<参考サイト>
怪異伝承データベース
http://www.nichibun.ac.jp/youkaidb/
京都国立博物館
http://www.kyohaku.go.jp/gazoj.htm
京都大学電子図書館
http://ddb.libnet.kulib.kyoto-u.ac.jp/minds.html
淡島神社
http://www.kada.jp/awashima/
それいけ!アンパンマン ホームページ
http://www.ntv.co.jp/anpanman/
ポリンキー ホームページ
http://polinky.com/index.html
ヤンポチ村
http://www.ytv.co.jp/yanpochimura/