浮世絵とくれば、美術史などで北斎や広重などは習うことがあるだろうが、明治の浮世絵というものはあまり知られていないようだ。そんななか、最後の浮世絵師と呼ばれる芳年が私は好きだ。
私は妖怪画について調べたとき、国書刊行会の『芳年妖怪百景』によって彼のことを知った。その線や配色、構図などに圧倒されてすっかり気に入ってしまった。今まで浮世絵は北斎ぐらいしか興味がなかったが、一気に浮世絵に対する気持ちが変わった。
まずは芳年の経歴を紹介しよう。
芳年は天保十年(1839)米次郎として江戸新橋南大阪町に吉岡兵部の次男として生まれた。その後、父のいとこ薬種京屋織三郎の養子となる。 初めに松月という四條派の絵師についていたがこれでは売れないと見限り、嘉永三年の十二歳のとき(1850or1849)歌川国芳に入門する。
黒船が浦賀にやってきた嘉永六年(1853)十五歳のときに「画本実語教童子教余師」に吉岡芳年の名で最初の挿絵を書く。同年錦絵初作品「文治元年平家一門亡海中入る図」を書く。
文久元年(1861)に師匠の国芳が亡くなり、三枚続きの合戦絵を精力的に描く。
慶応元年(1865)に祖父の弟である月岡雪斎の画姓を継承した。
『和漢百物語』そして、芳幾との合作『英名二十八衆句』(内十四点)を描く。芳年の血みどろ絵として有名だが、一勇斎国芳の『鏗鏘手練鍛の名刃(さえたてのうちきたえのわざもの)』に触発されて作られた。これは芝居小屋の中の血みどろを参考にしている。
明治元年『魁題百撰相』を描く。これは彰義隊と官軍の実際の戦いを弟子の年景とともに取材した作品である。さらに血みどろ絵が生々しくなる。
しかし明治五年、自信作であった『一魁随筆』のシリーズがかんばしくなく、ショックを受け、そして強度の精神衰弱に陥る。しかし翌年には立ち直り、新しい蘇りを意図して号を「大蘇」に変える。
明治八年から九年「郵便報知新聞」に新聞錦絵を描いた。明治十年に西南戦争が勃発し西南戦争の錦絵が盛んになる。明治十一年には天皇の侍女を描いた『美立七曜星』が問題になる。
明治十二年(1879)宮永町に移転し、手伝いに来ていた坂巻婦人の娘坂巻泰と出会う。
明治十五年「絵入自由新聞」に月給百円の高給で入社するが、明治十七年「自由灯」に挿絵を描き「絵入自由新聞」と問題になる。また「読売新聞」にも挿絵を描く。
『根津花やしき大松楼』(明治十六年)に描かれている幻太夫との関係も生じるが別れ明治十七年(1884)坂巻泰と正式に結婚する。
明治十八年、代表作『奥州安達が原ひとつ家の図』などによって、「東京流行細見記」(絵師の人気番付)で一番になる。
その後、『風俗三十二相』、『月百姿』などを出し、浮世絵色の脱した作品を作るが、それに危機を覚えてか、本画家として活躍しだす。また、弟子たちを他の画家に送り込んでさまざまな分野で活躍させた。
『新形三十六怪撰』の完成間近の明治二十四年(1891)頃から体が酒のために蝕まれていき、再度神経を病み目を悪くし、脚気も患う。また、現金を盗まれるなど不運が続く。
新富座の絵看板を年英を助手にして製作するものの、翌年明治二十五年(1892)に病状が悪化し、巣鴨病院に入院。病床でも絵筆を取った芳年は松川の病院に転じるが、五月二十一日に医師に見放され退院。六月九日、本所藤代町の仮寓で脳充血のために死亡。
しかし、やまと新聞では六月十日の記事に「昨年来の精神病の気味は快方に向かい、自宅で加療中、他の病気に襲われた」とある。
芳年の墓は東大久保の専福寺にある。明治三十一年(1898)には向島百花園内に岡倉天心を中心とする人々によって記念碑が建てられた。